♯004 人間の煩悩 ~「聞く地蔵・聞かぬ地蔵」より~

浄福寺の鐘撞き堂前には、2体のお地蔵さまがおられます。この2体のお地蔵さまを見ておりますと、思い出すお話があります。児童文学作家・宇野浩二さんの「地蔵様の村」(通称「聞く地蔵・聞かぬ地蔵」)というお話です。概要は以下です。

 

ある村で施しを受けた老僧が、2体のお地蔵さんをお礼として持ってきました。東のお地蔵さんは願いをたちどころに聞いてくれる、西のお地蔵さんはお願いを聞いてくれないお地蔵さんとのこと。老僧は「西のお地蔵さんにしっかりと手を合わせなさい」と言って村を後にします。村人たちは、最初は西のお地蔵さんにも手を合わせていましたが、次第に東のお地蔵さんが本当に願い事を叶えてくれることを知り、東の方ばかりを拝むようになります。実際に願い事が叶ってしまうものだから、村人がみなこぞってお願いをするようになりました。

最初は「膝の痛みが治りますように」「豊作でありますように」と、ささやかなものだったのですが、徐々にエスカレートしていきます。「私を村で一番の長者にしておくれ」その次の人は「いや、私が一番の~」となり、村人達の心は徐々に荒れていきます。それでも実際、願いは叶ってしまいますので、村では汗水垂らして働く人はいなくなりました。そしてあろうことか、「あのオヤジを病気にしてほしい」「あの家を貧乏に戻してほしい」などと願いをかける人が出始めたのです。こうして、村は物心共に荒れ果てた状態になってしまいます。その時、老僧がまた現れてこの状況を見て、「西のお地蔵さんに手を合わせなさい、とあれほど言ったではないですか。」と村人達を諭します。村人達は行きすぎた行いを悔い、また村は平和な状態を取り戻しました。

 

老僧、かなり余計なことをして村を混乱に陥れたなぁ、というのが第一印象です(笑)。この話、人間の煩悩の本質を突くような、耳の痛い話かも知れません。人間の欲望は一度そのフタが開かれてしまうと、手が付けられないような恐ろしい一面を見せます。

▲浄福寺の鐘楼堂前のお地蔵さんです

だからこそ、そのような我々の姿を分かっているからこそ、阿弥陀さまは救いの手を差し伸べ、長い時間をかけて救いの手立てを用意してくださっています。私たちは、それを「評価する」とか「部分的に受け入れる」ということではなく、有り難いことだなぁ、かたじけないことだなぁ、と全てをお任せするところに開かれてくるのが浄土真宗の信心だと、我々は先師から教わってきました。

人間なのだから病気をして当たり前、膝が痛くなって当たり前、思い通りに行かなくて当たり前。それでも阿弥陀さまが我々とともにいらっしゃって、ともに歩んでくださるということを受け止めることができればと思います。(2023年3月号より)