今回浄福寺として初めて、仏教連続講座、「初めて学ぶ正信偈」ということで、スタートしました。1回あたり約1時間での講座です。以下はその際の映像です。限定公開(URLを知っている人は再生できる設定)にしています。以下、スライドを伴い、お伝えした内容の要約を書いておりますが、動画を見ていただくのが一番早いです。
また当日配布したプリントはこちらです。
◉第1回資料:正信偈講座1回目
◉全回通しての資料:【共通資料】初めて学ぶ「正信偈」講座
まずは「正信偈とは何か」を確認しました。
正信偈(正信念仏偈)とは、浄土真宗の宗祖親鸞聖人の主著、『顕浄土真実教行証文類』の行巻末尾に収められれているものです。
昔から、「正信偈が分かれば浄土真宗が分かる」と言われており、梯先生の講演録からの言葉を引用いたしました。
この画像が親鸞聖人のご真筆といわれています。これは東本願寺所蔵のものですが、聖人が何度も筆を加えられた様子がアクティブに感じられる、大変貴重な資料と言えるでしょう。
8代蓮如聖人の時に、正信偈を日常のお勤めに使用されるようになり、またその後に同じく親鸞聖人が書かれた和讃を繰り読みしていく慣例ができたと言われています。
次に、正信偈の大まかな構造です。
大きく3つ(2つ)で、冒頭2句の「帰敬序」、「依経段」、「会釈段」の3つに分かれます。ボリューム的には依釈段
が多くなっています。
まず冒頭の「帰敬序(偈)」と言われている冒頭の2句です。この2句は親鸞聖人の信心の表明がなされているところで、正信偈全体に方向性を与える非常に大切な部分です。
まず注目すべきは「帰命」と「南無」は共に梵語の「ナマス」を語源としているという点です。仏典はインド→中国→日本と伝わってきました。
中国で、意味を取って訳されると(漢訳)、「帰命」となり、音を取って訳されると(音訳)、「南無」となるということです。
帰命をどう捉えるかで、浄土宗での解釈等さまざまありますが、親鸞聖人においては「お任せする・仰せにしたがう」という意味で使用されていたようです。では何に「帰命」し、「南無」するのか、という点です。
それは、「無量寿如来」そして「不可思議光(如来)」に、ということになります。
2句目は不可思議光のあとに「如来」が入っても良いかと思うのですが、文字数上、「不可思議光」でとどめられているかと思います。
「無量寿如来」は阿弥陀仏の寿命が無量であることを讃嘆されています。これは救いが時間的に無限であることを示してくださっています。過去から今に到るまで、そしてこの先もずっと阿弥陀さまの救いの中に収めとられているということです。これはいわば「救いの時間的無限」が表されていると言えるでしょう。
「不可思議光」は、阿弥陀さまの智恵と慈悲の働きです。この阿弥陀さまのお働きは「光」でもって、示されています。親鸞聖人は教行信証の冒頭で、「無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」と決して遮られることのない光として,そのお徳を讃えられています。これはいわば「救いの空間的無限」が表されています。どこにいても遮られることのない光が届いているんだ、ということです。
この2句をまとめると、いつでも・どこでも、私を救おうとされている仏さまがおられ、その仏さまに我が身をお任せするという信心の表明がここでなされています。
次に、3句目・4句目です。
阿弥陀仏が仏になられる前の「法蔵菩薩」さまが、師仏である世自在王仏の元におられてのやりとりがあります。
大無量寿経の中で、法蔵菩薩は世自在王仏に、諸仏の浄土の様子を示してほしいとお伝えになります。しかし、世自在王仏は一旦「自分で考えなさい」と言われます。
しかし、法蔵菩薩は自身では到底考えが及ばないので、どうか示してほしいと再度願われます。法蔵菩薩の深く固い志を目の当たりにした世自在王仏は、意のままに諸々の仏国をお見せになります。
法蔵菩薩が固い決意で思いを師匠にぶつけ、それを本気と気づき自ら身を乗り出して、お示しになった世自在王仏のご様子はまたに「啐啄の機」といえるものではなかったか、という気がします。
次に、5句目・6句目です。
法蔵菩薩のために、ひろく「二百一十億」の様々な仏がたの国々に住んでいる人々の善悪と国土の優劣を説き示されます。
ここで「諸仏」という浄土教の世界観が難しい部分があるかも知れません。阿弥陀さまだけではなく、色々な仏さまがおられて、その仏さまの「仏国土」がある、ということです。
法蔵菩薩は、「人々の迷いと苦しみのもとを除かせてください」(『浄土三部経(現代語訳)』(本願寺出版社・22p))という尊い願いを成就するため、世自在王仏が示された諸仏の浄土をじっくりとご覧になられた、というシーンです。