浄土真宗の素晴らしいお書物の中に『蓮如上人御一代記聞書』というものがあります。これは浄土真宗の「中興の祖」と言われた第8代宗主、蓮如上人の言行録です。
蓮如上人は当時貧しかった本願寺を立て直し、熱心に布教されました。その方法として、当時の人たちに伝わるわかりやすい言葉で多くのお手紙を書かれ、それが拡散して親鸞聖人の説かれた教えが爆発的に広まりました。その蓮如上人が日々言われていたことや、行動の記録が『蓮如上人御一代記聞書』です。これは他のお聖教と違って、文字に残らないようなちょっとしたエピソードが残されていて、上人がすぐ身近におられるようにも思える大変ありがたいお書物です。
その中のエピソードを1点紹介いたします。蓮如上人は「聖教読みの聖教読まず」という人への批判をよく口にされていたようです。これはざっくりと言うと、仏教を知っていても日常生活にその精神が反映されていない人です。仏教を1つの教養・嗜みのように捉え、多少知ってはいるが、日々イライラしていて攻撃的であったり、道理をわきまえない、そういう人を指しているようです。
また逆のこともあるとも言われているます。つまり「聖教読まずの聖教読み」です。仏教聖典に書かれている難しいことはあまりよく分からないが、み教えをありがたくいただき、心が柔らかく日々感謝のうちに過ごしている人、そして“その人を見て法が伝わる、というような人ということでしょうか。そういう人もいるんだぞ、ということですね。
これは江戸時代の妙好人(信仰に生きた市井の人)、讃岐国の庄松さんの逸話が重なります。庄松さんは数字も8までしか数えることができず読み書きもできなかったようです。
庄松さんがあまりにお寺参りに熱心なので、ある意地悪な人に、「そのお経に何が書いてあるか言ってみろ」と、大無量寿経を手渡されたそうです。庄松さんはそれを手に持って(逆さに持っていたとも伝わっています)、「庄松助くるぞ、庄松助くるぞ、と書いてある」、と堂々と答えたのだそうです。
大無量寿経には阿弥陀仏の48願が書かれており、その中心となる18願文では全ての衆生を救うという誓願が確かに書かれているわけです。庄松さんは、経典のお心を理解してそこに自らの救いの確かさを見て、信仰の中で日々しなやかに生きておられました。
「“知っているだけ”の人間になっていないか?仏法が今、心に生きているか?」という蓮如上人からの問いかけですね。心しなくては、と思います。
現代は情報が氾濫し、いつでもそれにアクセスできます。情報に振り回されずに、心の拠り所に気づき、その中に身を置いて生きていくことの大切さを感じます。(2023年7月号寺報より)
▼下の写真は大阪の津村別院です。津村別院はよく行くことが多いのですが、蓮如上人のお像もあります
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