正信偈講座(2回目)

2回目の正信偈講座を10月19日(土)に行いました。大勢の方にお見えいただきました。ありがとうございます!

内容を可能な限りまとめていきたいと思います。なお当日の録画データに不備があり(要は「撮れていなかった」、ということです。申し訳ありません)、差し替えの動画を近々入れる予定です。そちらの方はもうしばらくお待ちくださいませ。

スライドを入れながら、順を追って参ります。

 

7句目、8句目です。ここでは、法蔵菩薩が建てられた願いを「無上殊勝願」と「希有大弘誓」として表され、それらが立てられたということを「建立」と「超発」という言葉でお示しの部分です。

7句目、8句目は構造が同じですね。

「無上殊勝願」とはこの上なく、殊(こと)に勝(すぐ)れた願い、ということ。また「希有大弘誓」は希有で大きな弘い願い、ということですから、共に法蔵菩薩の願が最大限に讃嘆されています。

また願いは「四弘誓願」というのが有名なのですが、これは全ての菩薩が共通した願いです。これは龍谷大学で授業の際のチャイムとして使われていたメロディーがありますので、これが鳴るとダッシュしていた記憶があります笑。広く各御宗旨で使われているものだと認識しております。

それに対して、それぞれの菩薩様が建てられた願いは「別願」と言われ、法蔵菩薩が建てられた願も独自のもので、これから見ていく四十八願はそれに当たるものです。

 

 

具体的にこの四十八願を見ていくこととしましょう。よくご法事で僧侶が読経するものですが、実際に三部経すべてを読誦していくことは難しい部分があります。

基本的に、どの願も赤の部分「設我得仏」と最後の「不取正覚」は共通して使われています。意味としては、私が仏になったとき、もし~~~ができないのであれば、私は決して仏にならない。という意味です。

これは政治家が出すマニフェストに近いのかも知れません。「◯◯を実現します」ということを誓ってくださっているんですね。政治家のそれと異なる点は、「◯◯ができなければ、仏にならない」とお誓いくださっている点ですね。

政治家の場合、「実現できなければ議員辞めます」ということでしょうか。そんな人は見たことがありません。

この「設我得仏」から始まり、「不取正覚」で終わる法蔵菩薩四十八の願いが大無量寿経で述べられます。

 

 

全ての願をひとつひとつここで見ていくことはできないのですが、これが四十八願の分類です。

法蔵菩薩が立てられた四十八願の願はどのようなもの、どのような内訳であったか、ということですね。

分類は先哲方が色んな形でされてきたのですが、こちらは、梯先生の分類に順います。ここで示しているように以下に分類されます。

◆仏身の完成を誓われた願

◆浄土の完成を誓われた願

◆衆生の往生の因を誓われた願

◆阿弥陀仏に救われた衆生が、今生において、あるいは浄土において得る利益を誓われた願

ここで注目すべきは第十八願です。これは「根本の願」と言われ、四十八の願の中心であったと、親鸞聖人は見ていかれました。

 

 

 

ではそのご本願文(ほんがんもん)に何が書かれているのか、という点を確認していきたいと思います。お経として、漢字として見たとき、この三十六文字です。

浄土真宗のみ教えは色んな切り口や、色んなたとえ話で語られますが、最終的に帰ってくるところはここです。このご本願です。最終的に私たちが拠り所とする大切な部分がここです。

現代語訳すると、

「わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、私の国に生まれたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生まれることができないようなら、私は決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを誹るものだけは除かれます。」

これが本願文であり、親鸞聖人は「無上殊勝願」「希有大弘誓」と讃嘆された内容です。すべての者が救いとなっている広い(弘い)願いが述べられています。

 

 

ただ、最後に少し気になる表現があります。「唯除五逆 誹謗正法」とあります。

「ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを誹るものだけは除かれます。」

と書かれてあります。

五逆の罪というのは、父を殺す、母を殺す、阿羅漢と言って尊い修行者を殺す、お釈迦様を傷つける、教団の和を乱す、これが五逆の罪と言われるものです。また「誹謗正法」とは、仏法を誹(そし)る、という意味です。

それまでの部分で、全ての者を救うとあるのですが、後半はには「◯◯な者は除かれる」と書かれてあり、一見すると矛盾する表現のようにも見えてきます。これらの罪は本当に救いから除かれてしますのでしょうか?

 

 

この点に関して、宗祖親鸞聖人の見解を確認して起きたいと思います。

この「唯除」の部分は多くの諸師方が、様々な考察を加えてこられました。

「抑止(おくし)門」とは、これらの罪が非常に重いので、衆生にこれらの罪を作らせないようにするために戒めているという見方です。これはまだ罪を作っていない(未造)の立場にある者への説かれ方です。

「摂取門」とは、既に罪を造った者であっても回心させ、救い取るという見方です。

 

親鸞聖人は『尊号真像銘文』というお書物で以下のように述べられています。

「唯除といふは、ただ除くという言葉なり。五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがを知らせんとなり。このふたつの罪のおもきことを示して、十方一切の衆生、みなもれず往生すべしと知らせんとなり」

この二つの罪が重いことを知らせてくれる厳しいお言葉であり、決して、救いから漏れるという意味ではないということを示してくださっています。

はい、少し回り道してしまいましたが、本願文に触れたときにどうしてもここの部分が気になるという部分もあろうかとおもいましたので、少しこの点も触れさせていただきました。

 

 

次に9句目です。

「五劫」という途方もない長い間、法蔵菩薩が考えに考えて考え抜かれて、この四十八の願を選び取ったということです。

 

 

さて、この「五劫」についてです。「劫」という時間の長さは「盤石劫」という考えに依れば40里四方の石を、100年に一度ずつ薄い衣で払って、その石が摩滅して消滅するような期間であると言われています。

もうこれはとにかく、とてつもなく長い時間ということです。

このようなとてつもなく長い時間が法蔵菩薩の思惟に充てられた時間として示されているのでしょうか?

それは以下の2つあると思います。

 

◆救いの真実性

これだけの長い長い間、思惟に思惟を重ねて作り上げられた完璧な救いがここにあったのだということです。この私を救おうとされる思惟の長さに救いの確かさを見ていく、という味わいになるかと思います。

 

◆救われ難き私たちの有りよう

法蔵菩薩様でもってしても、完璧な願を選び取るためにこれだけの時間を要することは、それがいかに難しいことであったかを示しています。つまり、それ程までにご苦労を要する私たちの有りであったのだ、ということです。私たちがいかに救われ難き身であったということが、その五劫という時間でもって示されていることかと思います。

 

 

 

続いて10句目です。現代語訳は以下です。

「名号をすべての世界に聞こえさせようと重ねて誓われたのである」

「重ねて誓う」というのは何か、という部分です。大無量寿経の中で法蔵菩薩が四十八願の願をお示しになったあとに、『重誓偈』が出てまいります。

これは、法蔵菩薩の誓願の要約のような形で、繰り返して誓われるということです。

重誓偈は「我建超世願」から始まる、法座や研修会などでよくあげられる偈文ですが、これは『大無量寿経』に収められているんですね。

重誓偈の中に以下のようにあります。

我至成仏道 名声超十方 究竟靡所聞 誓不成正覚

ここに「名声超十方」とありますが、名声とは南無阿弥陀仏の六字の名号のことです。

南無阿弥陀仏の名号が諸仏によって讃えられ、十方世界に広がってゆかなければ、万人の救いになりません。

法蔵菩薩のご修行の成果・ご苦労、そしてすべての功徳が込められた込められたこの六字の名号が広く伝わることを四十八願を述べられた後も重ねて誓われたということです。