今回は「十二光」についての下りを扱います。
ここは阿弥陀仏の光明が私たちに、どの様に至り、そしてはたらくのか、そしてどの様に私を救うか、という部分を味わっていきたいと思います。十二光とは…。
『仏説無量寿経』をもとに、阿弥陀仏の光明の徳を12の側面から讃えられた部分です。
正信偈は以下から始まります。
帰命無量寿如来
南無不可思議光
1句目は阿弥陀仏の「寿命」が無量であるということを、そして2句目は私たちの想いが到底及ばない「光明」を讃えられた部分です。
この十二劫は「光明」を更に深め褒め称え、そして展開されていかれた部分です。
11句目の「無量光」から15句目の「超日月光」までの部分に「12」の光の名称が詰め込まれています。
個別に見ていく前にまず、この部分の大意を捉えておきたいと思います。
現代語訳としては上のようになっております。
十二の光がどのようなものか順に上げられています。
最初の「普放」は「あまねく放つ」ということで、何を放つのかという部分で順に上げられてきます。
こういった具合に①無量(光) ②無辺光 と順に、続けて出されます。
この部分は意訳勤行では1つ1つが出されず、「十二の光放ちては」とまとめられています。
ただ、正信偈では「12」出されていますが、例えば親鸞聖人が書かれた「念仏正信偈」の方では「5」であったり、必ずしも12にこだわる必要はないのかも知れません。
正信偈の前半は「依経段」と言われ、『仏説無量寿経』を元に書かれています。ちなみに『仏説無量寿経』の異訳である『如来会』は15光です。十二光を順に見ていきます。
①無量光
量ることのできない光
②無辺光
際限のない光、一方にかたよらない平等な光
③無礙光
何ものにもさえぎられることのない光(どんなに分厚い煩悩も貫き通す)
親鸞聖人「詮ずるところは、無礙光と申しまゐらせ候ふこ とを本とせさせたまふべく候ふ。」(御消息)
「大行とはすなわち無礙光如来の名を称するなり」(教行信証・行文類)
「ひそかにおもんみれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無礙の光明は無明の闇を破する恵日なり」(教行信証・総序)
→親鸞聖人は十二光の要は無礙光であると考えておられると思われる
参考までに見ていくと、
「つつしんで真仏土を案ずれば、仏はすなはちこれ不可思議光如来なり」 (教行信証・真仏土文類)
現存する親鸞聖人の御真筆の名号本尊で南無阿弥陀仏以外は、
「南無不可思議光仏」(八字名号)
「帰命尽十方無礙光如来」 (十字名号)
→無礙光と不可思議光を重視されていた
④無対光
他に並ぶもののない光
⑤炎王光
最もすぐれた輝きをもつ光
⑥清浄光
明るく清らかな光
⑦歓喜光
怒りを除き喜びを与える光
⑧智慧光
迷いを除き智慧を与える光
→⑥⑦⑧の3つは、それぞれ三毒を打ち破るはたらき
⑨不断光
決して絶えることなく常に照らす光
⑩難思光
思いはかることができない光
⑪無称光
言葉で説き示すことができない光
⑫超日月光
太陽や月に超えすぐれている光
16 一切群生蒙光照
- 書き下し
一切の群生、光照を蒙(かぶ)る。
- 現代語訳
すべての衆生はその光明に照らされる。
この画像はイメージがつきますでしょうか?
家の掃除などをしていて、布団などをブワッと整えたときに差し込んできた光によって、舞い上がった埃が際立って見えることがありますよね。
これって「光があるから、埃が際だって見える」のでしょうか?
それとも「埃があるから、光が際だって見える」のでしょうか?
ニワトリと卵みたいな話で、この問いに正解などはないと言わざるを得ません。
私たちが仏法に触れるとき、仏法を「学んだ」「知った」だけでなく、それによって我が身が照らされ、私自身の姿がいよいよ明らかになってくる、そういう面があるように思います。
むしろ、それがなければそれは「仏法ではない」とも言えるかも知れません。
また「学んだことにならない」とも言えるでしょう。
こころの部分をまとめると、以下のようになるのではないでしょうか。