#007 立ち姿の阿弥陀さまのお心を尋ねて

夏に行ったサマースクールの際に、子どもたちに内陣横の余間に入ってもらって、横からも阿弥陀さまの仏像を見てもらいました。仏像を正面から見たことがあっても、横から見るのは初めてという子が多かったのではないかと思います。

 

横から見ると、ご本尊の阿弥陀さまは少し前傾して立っておられることがわかります。正面から見るとまっすぐに見えるのですが、横から見ると阿弥陀さまのかかとが少し上がり、前に傾いています。子どもたちも興味深く見てくれました。

これは浄福寺のご本尊に限ったことではなく、浄土真宗の寺院であれば、どこでもそのはずです。これは阿弥陀さまが我々の方を向いて下さっていて、”今まさに”我々に働きかけて下さっていることが表現されています。

 

同じ阿弥陀さまの仏像であれば、非常に有名なお寺がありますね。10円玉に描かれている京都府宇治市の平等院鳳凰堂の阿弥陀さまです。この阿弥陀さまは非常に有名です。ご宗旨が異なるのですが、こちらの阿弥陀さまは座っておられるお像(座像)です。座っている阿弥陀さまのお姿は「自内証」といって、悟りや知恵そのものを表しており、「ないしょ話」の語源とされています。智恵の眼によって物事を明らかに見つめ、平安で穏やかな境地を示しているのが座っているお姿です。

▲先日、宇治市の平等院鳳凰堂に行ってきた際の写真です。阿弥陀さまの堂内は写真撮影不可でした。非常に荘厳な雰囲気で、「平安時代をそのまま残している」とのことです。

 

それに対して、立っておられる像(立像)は、救済の働き、つまり慈悲の実践が表されていると考えられています。これを「立撮即行」と言い、「撮」は瞬く間にとる、という意味です。煩悩にまみれた私たちのために手立てを尽くし、今まさに救おうとされている姿として表されています。まとめると、以下のようになるかと思います。

 

【座像】→智恵-「自内証」
【立像】→慈悲-「立撮即行」

 

座像は「こっちにきてね」、立像は「そっちにいくよ」と例えられることもあります。ただ、智恵と慈悲は明確に線引きされるものではありません。真実の智恵は慈悲に展開しますし、慈悲は智恵から湧き出るものです。我々のご宗旨では、阿弥陀さまは私たちの方を向き、私たちを救おうとされているその姿をご本尊としていただいています。

もし小さな子が、用水路の近くなど、危なっかしいところでフラフラと歩いていたら、親や周りの大人は気が気ではありません。座って眺めているのではなく、きっと立って構えていることでしょう。いてもたってもいられない、とはこの状況です。阿弥陀さまに手を合わせるとき、穏やかな心をいただけるのは、その尊い立ち姿と伝わってくる、そのお心からくるのだと思います。(2023年8月号寺報より)