「他人との比較」から離れられない私たちの心
10月末に子どもたちを連れて、京都の大谷本廟に行ってまいりました。境内地に「隣の客はよく柿食う客だ」という言葉が掲示されていました。パッと見たときに、何を意図しているのかよく分からず、モヤモヤとした気持ちが残りました。家に帰ってから大谷本廟のホームページを見て、やっと意図がわかりました。この「よく柿食う客」というのは何と比べてそう言っているのかというと、私や世間一般の常識と比べている、ということなんですね。このよく知れた早口言葉から、「ついつい他人と比較してしまう自分」を読み取る、という意図でした。
この早口言葉からここまで深読みしないといけないのか…(笑)と思いつつも、そう言われるとやはりその通りです。私たちは「比較」なしでは生きていけない存在です。原始時代からそうだったのだと思います。もし動物が襲ってきたとして、その大きさ、数が多いのか少ないのか、自分が対応できそうな事態と無意識に比較して状況を判断します。自分が食べようとしているキノコの色を何かと比べることもあるでしょう。それは命を守る本能とも言えるものかも知れません。
▲本堂南の空き地で取れた柿です(甘柿)
最近の子どもたちは、比較されることを嫌います。「◯◯くんはできるのに、あなたはなぜできないの」とか言われると、子どもは大抵、腹を立ててやる気を失うと思います。大人でも同じでしょうね。「大谷翔平選手は年間何十億と稼いでいるのに、あなたはこれっぽっちしか稼げないの?」とか言われたら、腹が立つはずです。また自分より優れた人を羨ましく思う中で、嫉妬したり、自らを卑下したり。これも比較から生じる心です。
逆の比較もあります。自分より何かが劣るとおぼしき人を見つけ出して、「自分は◯◯さんよりはマシだ」と思えば、いくらかの優越感・安心感が得られるかも知れません。これもつい無意識でやってしまうことです。人間、勝手なもので、自分が”下“になる比較をされたら怒るのですが、自分が”上“になる比較は進んでしてしまいます。情報過多な現代社会で、他人と比べることから離れて、ありのままの自分を受け入れることはなかなか難しいことなのかも知れません。
阿弥陀さまの智恵と慈悲の心は、ありのままの私たちを包んでくださいます。条件付けがありません。厳しい修行をしたから救うとか、優れた人間だから救うとか、条件付きの救いではありません。我々をこのままの姿で救い取ってくれる仏さまが阿弥陀さまです。そのお心が経典の随所に書かれており、全ての者が救われていく仏道があることを体系的に説き示して下さったのが法然聖人であり、親鸞聖人でした。このような仏道が先人達によって大切に相続されてきました。ありのままの自分が救われていくみ教えの有り難さを思うとき、比較ばかりの自分の心に気づかされます。(2023年寺報11月号より)