#012 もう一つの時間

#012 もうひとつの時間

今、私は自分のパソコンやスマホで「おせ」と入力すれば「お世話になります」、「おね」は「お願いします」、「し」は「承知いたしました」と変換されるように設定しています。これによって、メールやLINEでの送信速度が向上しました。でもこういうこと(設定)をしながら、「それでいいのかなぁ」とふと思うこともあります。

 

私は小1・小2での担任の先生と、卒業後も文通をさせていただいていました。当時加茂小学校で教鞭をとられていたY先生という女性の先生です。先生は非常に達筆で、送られてくる手紙の文字を見る度に、それはもう惚れ惚れとするような筆遣いでした。

 

手紙の中には、私が小学生の時、学級内でのできごとや「あなたはこういうことを言っていましたよ」というような内容が時折書かれていました。昔の先生は凄いですね。自分が覚えていないような細かいことまでよく覚えておられ、心底驚いたことがあります。また先生が書道展に出展された際、作品が掲載された冊子が送られてきたこともありました。ご高齢ですが元気で書道に精を出されている先生の姿が目に浮かび、嬉しくなったことを覚えています。

 

やはり手書きの手紙というのは特別なものですね。他の誰でもなく、自分のためだけに時間を割いて書かれ、一文字一文字筆が運ばれたものです。筆遣いを通して、私自身にかけてもらった時間が伝わってくるように思います。今はLINEやメール等でコミュニケーションは便利になりました。その便利さを今更、手放すことはできません。ただ、だからこそ手紙によって伝わる有り難さは、いよいよ際立ってくるようにも思えます。

 

しかしある時期から、先生の手紙が届かなくなりました。そしてご主人からのお手紙が届きました。「妻は他界しました。生前のご厚情に感謝致します」という内容でした。先生が亡くなられた後、ご主人が手紙のやりとりをしていた方お一人お一人に、手紙を書いておられたのです。ショックでしたが、ご高齢でしたので不思議なことではありません。このような形でのお別れもあるのだと知りました。

 

毎日せわしなく動く中で、先生との文通は非常にゆっくりとした時間の流れを感じさせてもらえるものでした。ゆっくりとしたペースのやりとりの中で、何十年も前の話がでてきたり…。そして内容には何の緊急性もありません。日々バタバタとせわしなく動くだけではなく、それとは別のゆったりとした時間の流れを許容する心を持ちなさい、と教えてもらったのではないかとも思えます。

 

阿弥陀仏の建てられたご本願は、「五劫」という途方もない時間がかけられて思案されたと『大無量寿経』にあります。現代人にとってそれはすんなりと受け入れられない事かも知れません。親鸞聖人は『歎異抄』の中で「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」と受け取られました。

 

この私ひとりに届く慈悲の深さが時間で表されているとも言えるかも知れません。私たちが日々生きている定量的な時間とは別に流れる”もうひとつの時間”があるのではという思いのもと、そのお心を受け取りたいと思います。

この仏像は京都の金戒光明寺(浄土宗)にある「五劫思惟阿弥陀仏」です。阿弥陀仏が法蔵菩薩の時、もろもろの衆生を救わんと五劫の間ただひたすら思惟をこらし四十八願を建てて修行をされ、阿弥陀仏となられました。気の遠くなるような長い時間、思惟をこらし修行をされた結果、髪の毛が伸びて渦高く螺髪を積み重ねた姿になられたご様子を表している仏像です。(撮影:住職)

ちなみに、こちらのお寺には、第18願文碑もありました。

(寺報2024年7月号より)