先掲の本徳寺のお話にもありましたが、本願寺第8世、蓮如上人(1415~1499)という方がおられます。お家のお仏壇で阿弥陀さまの左側に絵像がかかっているタイプの場合は、そこに安置されているのが蓮如上人です。蓮如上人は「御文章」と言われるお手紙を使って精力的に布教されるなど、浄土真宗のみ教えを爆発的に広めた方です。今、日本で全宗教・全宗派の中で浄土真宗のご門徒さんの数が最も多いと言われていますが、蓮如上人はその礎を築かれた方でもあり、このようにお仏壇にも安置されることとなっています。
また旧来のお仏壇では、蓮如上人が書かれた御文章が収められた「御文章箱」があるお家も多いのではないかと思います。あの中に御文章が入っています。謎の”開かずの箱”になっている、ということもよくお聞きします(笑)。
大変な乱世を生きた蓮如上人は、親鸞聖人によって明らかにされたみ教えを大切にして生きられました。そして圧倒的な行動力、統率力、人間力で各地を精力的に回り、浄土真宗の教えを一気に拡大された稀代の宗教家です。
これだけの実績を残された方です。さぞ若いときから先頭に立って活躍されていたのかと思いきや、実は蓮如上人が歴史の表舞台に姿を現すのは本願寺第8世となった「43歳」と意外に遅いのです。当時の平均寿命よりおそらく上の年齢からのスタートです。それまでの部屋住み(下積み)期間が非常に長かったのですが、それは蓮如上人がいわゆる嫡子ではなく、庶子であることも要因とされています。
蓮如上人は第7世の父存如の正妻の子ではありませんでした。蓮如が6歳の時に、父が正妻を迎えることとなり蓮如上人の生母は本願寺から出て行かねばならないこと
となります。その際に、お母さんは絵師に我が子の”忘れ形見”とし て絵を描かせ、それを持って寒い寒い年の瀬に本願寺を後にしたそうです。

▲「鹿子の御影」
蓮如上人は後にその絵師を見つけ出し、同じものを描かせて自分もその絵を大切に手元に置いていたそうです。それがこの「鹿子の御影」と言われる絵です。(*本日の投稿の画像参照)これは現在、福井の超勝寺というお寺に現存しているのだそうです。蓮如上人はどうにか手を尽くして母の行方を捜しますが、何の手がかりも得ることもできませんでした。
2人は離れ離れになりますが、この同じ絵をそれぞれが大切に持って、それぞれの人生を歩むこととなります。6歳の子と別れなければならなかった母、そして”大人の事情”に翻弄され、母と別れなければならなかった幼き蓮如上人。その切なさ・悲しさはいかほど大きかったことでしょうか。
たとえ離れていたとしても、同じものを拠り所に大切にして生きる。これはお念仏に通ずるのではないかと思います。仏さまから同じ信心をいただいて、そしてその信心が届いたところに同じお念仏が私の口から出てくださる。時を隔て場所を隔てたとし ても、同じ方向を向いて歩み、また遇える場所がある。そう信じて、蓮如上人もお母様も、大変な乱世の中を歩まれたことでしょう。
いつか福井まで、この御影を見に行きたいものです。