#010 勇気ある弟子の質問と、それに真正面から答えた親鸞聖人の凄み

#010 勇気ある弟子の質問と、それに真正面から答えた親鸞聖人の凄み

最近の”Z世代”と言われる若い世代の社会人は、上司から上から目線で説教されるのを嫌うようです。学校教育の中で理不尽な怖い先生から、頭ごなしに怒られたりした経験が少ないから耐性がないとか言われたりしますが、よくわかりません。

 

ただどの時代にしても、寄り添って考えてくれる目上の人の存在は非常に有り難いものです。お弟子の思いに共感し、ともに仏道を歩まれた親鸞聖人のお話を1つ紹介させていただきます。

 

『歎異抄』という書物があります。これは、親鸞聖人が言われたことを後のお弟子さんがまとめた書物です。その中の第9条にこんなやりとりがあります。弟子の唯円さんが師匠の親鸞聖人にある悩みを打ち明けます。「お念仏しても躍り上がるような喜びがなく、いくらお浄土が素晴らしいところだと聞いても、すぐに行きたいという気持ちにはなれません」ということです。

 

 

場面的におそらく親鸞聖人と二人きりだったのだと思います。唯円さんはこの質問をする時、さぞかし緊張したと思います。「信心が足りん」とか「そんなヤツは破門だ!」とか言われかねない重大な質問です。唯円さんは真面目なんでしょうね…。黙っておいてもよかったような思いを親鸞聖人にぶつけるわけです。

 

するとどうでしょうか。親鸞聖人はそれに対して、「唯円さんもそうだったか、私も同じなのです」とお答えになるのです。何ともこれは劇的なやりとりです。普通、師匠から弟子さんに対しての言葉なので、”指導をする”というイメージがあるかも知れませんが、親鸞聖人は唯円さんと同じ立場・同じ目線に立って、「唯円さん、私も一緒なのだ」と共感をもってお答えになるんです。

 

そして親鸞聖人は「本来喜ぶべきことが喜べないのは、私たちが煩悩に縛られているからだ」と言われます。ただ、このような私たちの姿を仏さまはお見通しだからこそ、救いがあるのだ、ご本願があるのだ、と。本来喜ぶべきことが喜べないこの私たちにこそ、ご一緒くださるのが阿弥陀さまなんだよ、と示してくださるんですね。

 

お念仏を素直に喜べない私たちの姿に気づけば気づくほど、だからこその救いに逢わせていただけるのだ、と逆説的に示されます。これはすぐには飲み込めないような非常に深い言葉です。

 

歎異抄によると親鸞聖人はこのやりとりの中で「苦悩の旧里は捨てがたく、まだ見ぬ安養浄土は恋しからず候ふ」と言われています。「苦悩の旧里」とは今、生きているこの人生です。偉い人になって救われていくのではなくて、思い悩みながらもこのような生き方しかできない我々が、このままの姿で救われていくという、他力仏道の神髄が示されています。お二人の年齢差は約50才。唯円さん、よくぞ聞いてくれた(笑)、という内容です。

 

唯円さんの疑問を我が事として受け止め、親鸞聖人は100%の共感を示されました。そのお姿を通して、阿弥陀さまの救いの中におさめ取られている私たちの有りようを思うと、この「苦悩の旧里」を一生懸命に生きていこう、そんな気持ちにさせてもらえるやりとりではないでしょうか。