♯001 普段気づかないこと ~柿の収穫が教えてくれたこと~

本堂南の空き地で、少しですが畑をしており(坊守が頑張っています!)そこに柿の木が2本あります。1つは渋柿、1つは甘柿の木です。先日、2日ほどかけて一気に収穫しました。高枝切りバサミや脚立を使って、どうにか成っている実をほぼ全て採っていきました。そこで気づいた事が、「柿の実の重さ」です。

柿の果実を大きなコンテナに移し(2杯分ありました)、またカラスにかじられていたり、熟れすぎていて処分しないといけないものを袋に入れていったのですが、その総重量たるや相当なものでした。

よくまあ、こんな重いものを柿の木は支えていたのだなあ、と思いビックリしました。しかも実を落とした後も、実が成っていたときも幹や枝の様子は変わらないんです。外見上は、実を付けている時と実を落とした時とで何も変わりません。もちろんこの柿の木の“力”は普通気づかれることはありません。

人間は自分が頑張ったら、その事をついアピールしてしまうのですが、柿の木は何も言わず、“重い荷物”を背負って大変なことを淡々としています。思えば、我々の背後に存在している“恵み”とか”尊いもの”は、こういうものなのかと感じました。

「浄土真宗は阿弥陀さまの救いによる他力の教えだから何もしなくても大丈夫、悪いことをしても、怠惰にしていても大丈夫」という類の誤解がどの時代にもあります。確かに浄土真宗では苦行・難行は必要ありません。滝に打たれたり、燃えさかる炎の中を素足で進んだり。そんなことは必要ありません。

しかし目には見えないけれども、確かに存在する大きなはたらきの中に、この命をいただいていることを有り難くいただくことができればと思います。(寺報2022年12月号より)