♯003 認識のずれ ~「親子丼って何?」から始まった会話~

随分前に、娘と話していた時のことです。「他人丼って何?」と聞かれたので、「たぶん親子丼に対しての言い方だから、それは牛肉と…」という説明をしました。「じゃあ親子丼は?」と聞かれたので、「鶏肉に卵をかけているから、それが“親子”ちゃう?」と、普通に説明をしました。

▲これは「いながわ」さんの親子丼です。美味しそうですね。

 

すると、

「お母さんの鶏肉が入ってるん?」「お店の人はどうやって用意するの?」

 

などと変なことを言うのです。ん?と思いながらも、しばらくやりとりをしていると「なるほど、そういうことか!」と、やっと合点がいきました。娘は”親子丼“には、“本当の親子”がセットになって入っていると思っていたようです。

 

すみません、前振りが長かったのですが、この変な会話わかりますでしょうか?私は親子丼を世間的な意味で捉えていましたが、娘は“親子”を文字通り”血の繋がりのある親子”として捉えていたのです。スタート地点での認識が違うと、なかなか会話が噛み合いませんね。何はともあれ、スッキリしたのですが、この話を思い出していると2つのことに気づきました。

 

1つめ。人間は恐ろしいものだなあ、ということです。まさしく親子ではないにせよ、親子を一緒に食べる、という名前ですから。もし娘が思っていたような本当の“親子“だったら…と想像すると、怖い話です。

 

2つめ。近い間柄であっても、物事に対する認識のスタート地点が違うと、会話が噛み合わないですね。こういうことは色んな場面で多いかと思います。同じものを見ていたとしても置かれている立場や、何を重視するかで見え方が異なり、思いを共有できなかったりします。それが元で争いが起こることもあると思います。

 

阿弥陀さまのご本願に耳を傾けるときに、我々の常識では理解できない部分があります。仏法は、世間とは異なる尺度が示されます。我々の常識で、役に立つとか立たないとか、そのような見方で仏法を理解できるようには思えないからです。

 

日々バタバタしていても、我々と違うところに立ち、私たちを見守っていてくださる阿弥陀さまのお声に耳を澄ますことができたら、と感じます。(寺報2023年2月号より)